身体的動きで思ったこと

最近気づいたことがあります。

身体を動かすのがスポーツ、なんだ。

当たり前なのかもしれませんが、
暫くぼくはスポーツを「メンタル」なものだと思っていました。

気分がいいから身体を動かそう
悔しさや屈辱を晴らしたい
ストレスを発散したい

「心」が起点になるのが殆ど。

でも違うんです。

シンプルに身体の動きを確かめるんです。


例えば
バレーボールなら、
水平方向に、時々垂直方向に
全身を伸縮させる。

目という知覚から
玉の動きを読む。

その動作から、着地点へ足が向かい
勢いをぐっと付け、力のベクトルを垂直転換するため
踵から太腿にかけ踏ん切りをつけ
身体全身を宙に持ち上げる。

脇の下から捻り出すように肩をあげ、
ポイントが定まると、上がった玉を掌で打ちこむ。
着地する動作には、身体の衝撃を緩めるために
重心をふっと浮かす。
そして、地上へと着地。

これがスパイクの一連の動き。

ひとつの動きにとっても
筋肉、骨格、神経の動きが沢山あるのみです。

そこにメンタルやロジックなど
存在しません。

現代人は、頭と心を酷使するあまり、
自分という
身体の動きを忘れてしまっているのかもしれません。

元を辿ると、人間も動物。

動きがあってこそ。

自然と動きを身体に落とし込めるのは、
動物的本能として素晴らしいです。

ただ、
頭と心の比重が多いため、それらが先走ってしまうことが多いなぁと。

ボーッと椅子に座っていても
知識や成果には限りがある。

何か得たければ
身体動作を伴わなければならない。

サバンナのマサイ族並みに。

ところで、マサイ族のように
身体能力がズバ抜けている場合
(ライオンと棒で戦う、一里先の象が見える)
もしかしたら、我々よりはるかに知能レベルも高いかもしれない。

わずか2パーセントの脳に頼る
我々より、何か特別な知恵がありそう。

「生きた知恵」のような。

かつてのモンゴロイド
ユーラシア大陸からアメリカ大陸へ渡ったように。

話が逸れた。
戻すと、

脳やメンタルの発達があったのも
かつての人間が、狩りをする中で培ってきた身体的知恵に積み上げられてきたものだろうし、
遠くの地へ旅を続けてきた、飽くなき忍耐と好奇心の賜物だと感じる。

今、宝を享受した私たちは
もう一度自身の身体で確かめ、感覚を取り戻すことに意味があると思う。

労働社会、知識社会、ときて
次に精神. 心の時代 がくるのは間違いない。

考えたり、想いを馳せる前に
自然と落とし込むスパンがいる。


頭でっかち
心でっかち
になる前に、
原点へ帰ってみるのがいいかもしれない。

登山やランニング、ヨガ が流行ってるのも
そういう時代の流れかもしれない。