糸井さん

<未来にどういうたのしみが待っているのか、それを想像しながら過ごしている時間は、すべて、そのたのしみに含まれると思うんです。週末に、ひさしぶりに恋人に会う人は、そのときまでの間、がまんしているとも言えるけれど、助走のように週日をたのしく過ごしているとも言えます。うれしい予定があるということは、希望があるということです。いまじぶんのしていることが、先のうれしいことにつながっていると思うと、いまの歩みがそのまま、たのしみにもなります。>

身体的動きで思ったこと

最近気づいたことがあります。

身体を動かすのがスポーツ、なんだ。

当たり前なのかもしれませんが、
暫くぼくはスポーツを「メンタル」なものだと思っていました。

気分がいいから身体を動かそう
悔しさや屈辱を晴らしたい
ストレスを発散したい

「心」が起点になるのが殆ど。

でも違うんです。

シンプルに身体の動きを確かめるんです。


例えば
バレーボールなら、
水平方向に、時々垂直方向に
全身を伸縮させる。

目という知覚から
玉の動きを読む。

その動作から、着地点へ足が向かい
勢いをぐっと付け、力のベクトルを垂直転換するため
踵から太腿にかけ踏ん切りをつけ
身体全身を宙に持ち上げる。

脇の下から捻り出すように肩をあげ、
ポイントが定まると、上がった玉を掌で打ちこむ。
着地する動作には、身体の衝撃を緩めるために
重心をふっと浮かす。
そして、地上へと着地。

これがスパイクの一連の動き。

ひとつの動きにとっても
筋肉、骨格、神経の動きが沢山あるのみです。

そこにメンタルやロジックなど
存在しません。

現代人は、頭と心を酷使するあまり、
自分という
身体の動きを忘れてしまっているのかもしれません。

元を辿ると、人間も動物。

動きがあってこそ。

自然と動きを身体に落とし込めるのは、
動物的本能として素晴らしいです。

ただ、
頭と心の比重が多いため、それらが先走ってしまうことが多いなぁと。

ボーッと椅子に座っていても
知識や成果には限りがある。

何か得たければ
身体動作を伴わなければならない。

サバンナのマサイ族並みに。

ところで、マサイ族のように
身体能力がズバ抜けている場合
(ライオンと棒で戦う、一里先の象が見える)
もしかしたら、我々よりはるかに知能レベルも高いかもしれない。

わずか2パーセントの脳に頼る
我々より、何か特別な知恵がありそう。

「生きた知恵」のような。

かつてのモンゴロイド
ユーラシア大陸からアメリカ大陸へ渡ったように。

話が逸れた。
戻すと、

脳やメンタルの発達があったのも
かつての人間が、狩りをする中で培ってきた身体的知恵に積み上げられてきたものだろうし、
遠くの地へ旅を続けてきた、飽くなき忍耐と好奇心の賜物だと感じる。

今、宝を享受した私たちは
もう一度自身の身体で確かめ、感覚を取り戻すことに意味があると思う。

労働社会、知識社会、ときて
次に精神. 心の時代 がくるのは間違いない。

考えたり、想いを馳せる前に
自然と落とし込むスパンがいる。


頭でっかち
心でっかち
になる前に、
原点へ帰ってみるのがいいかもしれない。

登山やランニング、ヨガ が流行ってるのも
そういう時代の流れかもしれない。

 

 

「おもしろき無き世も、おもしろく」

人と価値観が違う

 

ごはんに行っても、日常会話でも

仕事の話(会社の話)、誰々がどうのこうの、彼女(カレシ)(カラシ?)がどうのこうの、芸能の話、スポーツの話、ゴルフ、保険、健康。

 

‥どうでもいい

 

そうなんですか。と言うのも面倒で

へぇ〜と。

 

一番厄介なのが、

中途半端な人。

 

デキル人はそう話さない。

シンプルに突き詰めてる。

その道を真摯に。

ある意味尊敬する。

でも、遊びというか

人生の意義が薄いようで、なんだか魅力も少ないかも。

 

帰るのが早いと

「何してるの」

と聞かれる。

 

「ほっとけばいいのに」

 

‥と

 

最近まで思ってたが

 

どうやら

 

違うかも。

 

ただ、

 

羨ましいのかも。

 

価値観を持っていることに。

 

人なんて所詮他人。

別個の肉体。

愛する男女間でも99パーセント共有できない。

そら、価値観は

人其々違う。

似ている(であろう)価値観に合わせるためにあるのが、世間話。

心ありもしない

「同等性」に合わせるのは気苦労だな。

 

社会分析も面倒になってきた。

 

ぼくがやりたいこと。

 

「外」の世界で

おもしろい世界をつくること

 

宗教的な意味じゃなくて

個人的におもう

本当におもしろい

世界。

 

いろんな人を繋げたい。

 

できれば、変人たちを。

 

自分だけの世界をもっている

たくさんの人たちを。

 

でも、当初感じていた

「身内感はいや」

 

ヒッピーや森の住人達だけの

仲良し倶楽部とは

目指すのと違うのだ。

 

そう、

「普通」の人にも共感され

共有できる

場をつくりたい。

 

だから、ぼくも

「普通」の世界を体感しに、こっちへきた。

でも、「普通」

に合わせるのは

ぼくにとって

かなり苦、だと

むしろ無関心、だと。

 

でも、視点を変えよう

 

「普通」の人でも

「変」はどこかに抱えている。

慣れて「普通」から飛び出すことを忘れてしまった人、蓋をして様子を伺っている人、実は「普通」に合わせるのも得意で「変」も極めるテクニシャンな人、、。

 

そうか

 

人はだれしも持つ

感性。

 

子どもの頃に全ての人がもつ

瑞々しい世界観。

 

無くなった、のではない。

忘れた、だけ。

 

ぼくにできること。

 

 

これらの人の

「変」を引き出していくこと。

 

 

 

少しずつ

複雑に絡み合った紐を、ゆるりとほどいていくように。

 

今まで

自分だけの世界に固執していたぼくにとっても

大きなチャレンジ。

 

これぞ、

自分の世界だったのを

「自分たち」の世界にするチャンス!

 

ぼくの好きな感覚。

広がること。

知らなかったこと、

知識でしか知らなかったこと、が

全身へ浸透していくように

血が息が駆け巡っていく感覚‥!

 

 

これは本当にチャンスかもしれない。

 

 

本当に。

 

 

普通が蔓延している日常において。

 

「おもしろき無き世も、おもしろく」

 

少しずつでいいんだよね。

心に

テコいれたい。

 

 

 

 

差別と区別

事実は変わらない

 

見方はいろいろ

 

みんな違っていい。

違うからいい。

 

⭐︎浜松来ておもったこと

地縁、血縁がある

ゆずりあい

地縁‥友人関係のようなベタつきがない(≒血縁)

サラっとしていながら、協力関係。

できる人が、さり気なく手助け。

 

無言了解の文化があるのがいい。

 

 

 

 

山・旅

山に行くと

実感が変わる。

 

地理的な、土地的な。

 

山は山でも

唯一同じものはない。

 

特徴、雰囲気

 

旅と同じ

足を踏むことで見える「何か」

 

1つの山に登れば

その背景、周辺も見える

 

数珠繋ぎのよう。

 

自分なりに

日本、世界を旅し

自分だけの数珠を繋ぎたい。